私は今までいろんな国を巡りました。そこで見たものと印象から、自分の中での事実となっているものをもとに、日本を見てみたいと思います。
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| ビルマとスーチーさんのこと ビルマは少数民族国家です。ビルマ族が最多数である、とビルマ族の政府は言っています。 民族問題を抱える国は多いですが、いずれの国もその問題はないかのように振舞おうとします。 政府の力が地方に十分及んでいないし、どれほど正確な戸籍の情報が得られているかという疑問があります。 ビルマBURMAから国名をMYANMARに変えましたが、これはビルマ族の古称です。 私が会った、ヤンゴンやその他の地方の人々はその多くがビルマ族でしたが、ミャンマーという呼び方には否定的でした。 私は昔に縁があって、ずっとビルマウォッチングを続けています。 まず先に、選挙で勝てなかった、現政権が権力を譲らなかったのは 明らかな誤りであり、それを前提にして述べます。 「自由」「民主主義」というキーフレーズを聞くと思考停止になって、 決まりきった反応しかできないアメリカと、各国の同調によって、 経済封鎖になり、その時孤立したビルマを支援したのが中国です。 非同盟路線を堅持していた昔から、経済は東南アジア華僑に 占められていました。 アメリカとの関係を考えて表立ってはビルマへの資本を抑えざるを得なかった華僑資本は、 開放へと進んでいた、中国を経由して入るようになりました。華僑と中国の合資会社も少なくありません。 ビルマ政府は中国と近づき、現在は国軍は中国の訓練を受けています。 武器も中国から買っています。 20年前に初めてビルマを訪れた時は軍人はスイス製とかイスラエル製の武器も持っていました。 非同盟でしたからね。 そして、農産物などはかなり、中国がビルマから買っています(中国は食糧輸入国でもあります)。安いビルマから食糧を買い、高く売れる日本に毒まみれの食品を売っているわけです。 ちなみに、首都のヤンゴンでも夜になると、明かりに向かってすごくたくさんの虫が飛んできます。 土壌が豊かなビルマでは今だ、殺虫剤なんかあまり使っていないようです。 つまり、汚染されていないといえます。 今はヤンゴンでは中国の各局のテレビ放送が見られます。 中国のテレビでは臆病でへらへらして、残忍な日本兵が出ることが多く、 (こんな中国人みたいな、へんな日本兵いないよ!) 親日的なビルマ人はとても多いのですが、ビルマの国営テレビは娯楽が乏しいので、 洗脳されてしまうかもしれません。 アウンサン・スーチーは民主主義の「みこし」だと思います。 シンボルではありますが、言っている事はスタンドプレイが多く、具体的な政策に繋がる事がほとんどありません。だからこそ支持を受けたともいえるのですが。他の民族にも、国外の人々にも。 民主主義になれば、総ての問題が解決すると固く信じているようです。民族問題も、経済問題も? いえ、「問題」として見えているのでしょうか? 以前、軍事政権が「希望するなら国外に出るのはかまわない」と言ったときに スーチー氏は「空港まで行進をさせろ」といって反故になりました。 経済的な政策は皆無です。 選挙の後に軍事政権が何らかの妥協点でも実現するべきでした。 それさえしなかったのが連鎖的に二重、三重の掛け違えになってしまいました。 ビルマはアジアで最も自然、地下資源の豊かな国です。 海産物をほとんど消費しないので、海洋資源は手付かずに近い。 今はヤンゴンには中国資本の高層ビルが立ち並ぶようになりました。 物を取るだけで、何も育てようとしない華僑と中国の資本が 集団となって喰らいついています。 インド人の商人は稼いでは本国に送り、資本投下などしません。 アメリカが日本の投資を非難しましたが、 今のままの政策と経済封鎖は中国の支配を強めるばかりです。 日本は譲らず、そして政治力を発揮するべきでしょう。 アラカン=ラカインに行く (1998年11月〜12月) もうずっと以前にインドを旅していた時に仏教遺跡にある、ビルマ寺に泊めていただき、僧侶の方たちと話すと、そこにいた皆が「インドのアッサム地方のアラカン(ラカイン)族」だと言っていました。名前は全くのビルマ風です。バングラデシュと隣り合わせているラカインはどっちかといえば、「バングラデシュ色」に思い込んでいたのです。 大英帝国がインドを植民地にし、ビルマへと侵攻した時、ビルマには二つの王朝があった。中部のマンダレーと、今のバングラデシュに近い、ラカインである。イギリスはここをまず、撃破し、マンダレーへと侵略を進めました。 ラカイン州はビルマの西の端、海岸線はバングラデシュと接しています。
州都シットウェは海に面したひなびた感じの小さな町です。ここもこの方面に多い、三角州にできた町。バングラデシュ人も見受けられます。宿の隣はイスラムの小学校。ガイドブックによると歴史的なモスクだということですが、小さな平屋です。少し歩くと海辺で、大小の漁船がたくさん停まっています。バングラデシュからの貨物船も停泊しています。 Lonely planetというガイドブックには「ラカインの王の周囲は暗殺を防ぐ日本人のサムライ達が護衛していた」とあります。タイのアユタヤの王家継承の謀略で山田長政が殺されたあと、日本人町の生き残った日本人達はビルマに逃げたと書かれたものもありました。また、マラッカの政変があったときにも、日本人達はビルマに逃げたというものもありました。昔から、さまざまな縁が、かなりあったようです。 気温が高く、食品の傷みやすいのを防ぐためでしょうか、食堂にはたっぷりの油に浸されたようなビルマ風カレーがありました。かなり酸味のきついスープが付いてきますが、油の濃いカレーはこのスープがないと、途中から喉を越さなくなりそうです。海辺には中華料理のレストランもあり、海の幸がなかなか美味でした。ビールも冷えていたし。 ずっと以前にはビルマのVISAは1週間だけでした。それが現在のように4週間になり、長く滞在できるようになったら、旅行者の多くが、食事の脂っこさに参ってきました。少し前に日本では「油そば」なるものが流行りましたが、「油そば」ばかりではなく、「油めし」とでも名づけようかというものがあります。肉などで調理した、ほとんどが油のスープをご飯にかける、というもの。 町の外れに元リゾートの公園がありました。リゾートというのはかつてのイギリス時代でしょうか。日差しは強く、ほとんど日陰も無い。浜辺はベンガル湾に注ぐ河が運ぶ肥沃な泥土で、砂浜ではありません。海を臨む公園からはバングラデシュへと行き来する汽船がかなり見えました。先端の岩場で3人の若者が釣りをしており、竿無しで海老の切り身を付け投げ込むとけっこう次々と釣れている。イトヨリのような魚ばかりだった。 出ていた屋台で簡単な野菜と肉の炒め物を頼みビールを二本飲んで帰る。太陽の暑さでアルコールが沸騰する。こういう酔いもあるのだな。漁師が船から上がっていたので見せてもらうとやはりさっき若者達が釣っていたのと同じ魚ばかりでした。 MURA-Uへ ラカイン王朝のあった、今は小さな村MURA-Uまでは船に乗り、河をさかのぼること、6時間近く。ビルマは政府のライセンスがないと外国人は泊められず、これが地方に行った時に面倒になる。宿を見つけても、泊まれない事もある。村の中心に近い、小さな民宿のようなところが意外と外国人を泊められるというので、そこにする。 中心の通りには数軒の食堂があった。一軒は中国人のようである。ビルマによくある、味付けの妙にさっぱりとした焼きそばが出てきた。ビールを頼んで失敗。冷えてないのです。ここはほとんどの時間、停電。土地は乾いており、断水も多い。
王宮跡の遺跡は広大な公園です。使われている僧院やお堂はありますが、人々の信心は窺えるものの、資金は乏しいようです。雑草などは刈り取られ、人の手は十分に入っているようです。 帰り道で小さな歯の診療所があったので何となく覗いてみると中から中年の男が呼び招く。日本人である事を知るとお茶を出してくれて一族を呼ぶ。診療所の向かいの立派な家が彼の家。48歳の彼が昨年結婚したという28歳の妻。ふーん。すぐ近所に住んでいるという台湾人。戦時中に生まれたという。ひょっとして当時は台湾系日本人だったのだろうか?ビルマを旅していて、しばしば台湾人には会う。中華の食堂などを開いているのは雲南出身の中国人が多い。 村の中心に戻り、飯屋に行くと「今日はカニの爪がある」。中皿にたっぷりのカニの爪で冷えてないビールを飲み、チャーハンを食った。宿の晩飯もカニの爪で、多分近い海からの入荷があったのか、今日は村中にカニの爪があふれているような気がした。そうじゃないだろうけど。 翌日は結婚式があるから行こうと呼ばれていた。軽い朝食を摂って8時頃である。車に乗って十数分。一つの家に着飾った女達が詰めている。そこへ伝統衣装を着た花婿が迎えに行くのだがなかなか入れてもらえない。別の女が出てきたりしていったんは退散する。そして改めて、今度は出てきた花嫁と式場になっているほうの棟に行き、式が始まる。長老がお経を唱えながら結婚する二人の手首を糸で結んでいく。水をかけたり祝福の儀を済ませて、皆がお祝いの言葉とプレゼントを贈る。しめて2時間くらいであっさりと終わったようである。
明日はシットウェに戻るので、荷物のパッキングくらいしかする事は無い。昼飯はまだ入ったことのない食堂に行き「なにがあるか」と聞くと「今日はこれ」といったのが、豚の脂身カレー。それに酸っぱいスープ、温かいビールという食事だったがかなり体には負担だったような。 日が暮れて、路地の縁台に腰掛け、結婚式で会った連中たちと酒を飲みながら夕涼みをしていると、近所の家々のラジオ放送のボリュームが上がった。バングラデシュとの国境地帯が緊張状態で軍を派遣、という。一緒に飲んでいた連中は「俺たちはバングラデシュとの間には何も問題は無い。問題はいつもやつらが持ってくる」そしてひとしきりビルマ族=政府の非難になる。「俺たちは仏教徒だ。仏陀だけを信じる。ビルマ族は仏教徒のはずなのにナット(昔の英雄の神霊)も信じている」「アウンサンも嫌いだし、スーチーも何の役にも立たない。所詮はビルマ族同士でのこと」。 翌朝シットウェへの船の出る時間は8時。宿から船着場まで15分ほど。宿を出ると昨夜のニュースのせいか、どこか緊張感が漂っている。歩き出してすぐ、初老の男が寄ってきて話す。近寄ってきた感じはインドの押し売りガイドのような感じもしたが、話すのは今の問題である。少しアクセントはあるものの聞き取りやすく立派な英語であった。「政府は今のビルマ族の多い中央平野部の事しか考えない。ここは繰り返しこんな状態だ。だから、外からの投資は入らないし、産業も発展しない。貧しいままだ」それらの事を船着場の手前まで話しながら歩いてきた。そして「聞いてくれてありがとう」と言うと来た道を戻っていった。眼を合わせて黙ってうなずくしかなかった。 船着場にはシットウェに帰る、結婚式に来ていた連中も、もう船に乗っていた。出航の時には結婚した若夫婦が見送りに来ていた。自分のほうにも笑顔で手を振る。 また来たいが、もう来られないだろうな。そして船着場まで説明をしてくれたおじさん・・・。世界でいったい、ラカインなんて地名を知っている人がどれほどいるのかい。哀しいことに・・・。 シットウェの町に着いたが宿が塞がっている。西洋人の団体客が町に数軒しかない外人向けの宿に分かれて停まっているという。団体は町外れの高級ホテルに泊まるべきではないのか?人力車でまわって3軒は塞がっていた。最後の一軒で泊まれる。これはビルマ風の、大きなビルを板で仕切った部屋である。シャワーなどの設備はある。学生らしき者やビジネスマンらしき長期滞在者もいるようだ。海に近いので風がよく入る。庭はレストランになっているし、少し先に海に張り出した中華料理店もある。夕方だったので、シャワーを浴びて散歩して、宿の庭のレストランで食事をして床に付く。おそろしく蚊が多い。蚊帳は付いているが、たけがいっぱいいっぱいで、端っこを何とかマットの下に挟めるものの、うっかり夜中に蹴飛ばしたりしたら隙間ができそうだ。それに・・・庭のレストランは夜はカラオケをやりだした。11時半くらいには終わったが、早寝はできなかった。 次の日、翌日の飛行機を予約して、帰ろうと歩いていると呼ぶ声がする。中が暗い店の奥から、あの結婚式に出ていた男である。シットウェに最近できた、日本の海老の冷凍工場で働いているといっていたが、真昼間だよ、働いてないじゃないか。暗い店の奥は飲み屋であり、グラスを持たされ、「海老の二杯酢漬け」というまるっきりの日本風の酒の肴を出される。相手はもう、かなり出来上がっているようだ。途中で、結婚式で会った一人も来て数杯飲んで帰っていく。老人が来て(やはり酔っている)「見よ、東海の空あけて♪」と歌って帰る。まあ、そんな具合で1日を過ごしてしまった。 連中は翌日見送りに行く、と言っていたが、姿を現さなかった。つぶれているのかもしれない。 飛行場は到着した時より(やはり)ずっと軍人の数が増えていた。外国人はここに空路でしか入れず空港には名前が載ったリストがある。一週間もいるような者はあまりいないようで、出発の日が記入されて埋まっている中に空欄で残っている自分の名を見つける。 飛行機は遅れていて、売店も無く、軍人の多い空港の、固い木の椅子に座って待つ。 2時間ほども遅れてやっと飛行機は飛び立った。 (→トップへ) |
| 現代トルコの独立 現代トルコの建国の父ムスターファ・ケマル・パシャ=アタチュルクはオスマン帝国崩壊の後、独立とヨーロッパ各国による植民地化の中で独立運動を開始しました。オスマントルコ帝国は現在のエジプトや南はアラビア半島も含んでいました。オスマン・トルコが第一次大戦でドイツに組したがために、ヨーロッパの各国が分け前として植民地を欲しがり、侵攻してきたのです。アタチュルクは侵攻軍と旧オスマン帝国軍の残党を撃破し、そして混交し住んでいたギリシャ人を、現在のギリシャの地に送還し、トルコ人は引き揚げ、ギリシャとも分離を達成しました。この過程があってこそ現トルコ(トルコ共和国)の独立はなされ、東ローマ帝国から続いていたオスマン帝国という過去から別れを告げ、出発ができたのです。 「日帝三十六年」といいますが、戦後も58年を経ようとしています。人間なら二世代目も成人する頃、お互いに独立するべきではないでしょうか。アタチュルクに学んで、依存を断ち切って、自らに責任を持てる大人として、独立国として歩みませんか? (→トップへ) |
| ものつくる国 むかし、インドを旅行していた時にインド人の修理屋が言っていた事がある。「台湾や中国で作られたメイド・イン・ジャパンの偽者もある。彼らは日本製品を手に入れると、分解して、同じものを作ろうとする。材料の質は低いし、技術も落ちるが・・・。インド人は日本の製品を分解し材料の出来具合、組み立て具合を賞賛する」そして?「そして外装を似せて作り、『MADE IN JAPAN』のロゴを入れる」 なるほど。いささか自嘲はあるようだけど。インドにはそういうものは少なくない。 かつて日本が先進国でなかった頃、日本は「コピー製品の国」であり、モノマネの製品しか作れなかった。しかし当時とて、いつかは自分のオリジナルを作り、ブランドを作る、という気持ちを皆が持っていたのではないか。日本人にとって、彼方からの製品は精進のために提起されたテーマであり、いかに消化して、もっといい物を作るかが課題であった。コストを下げて同じものを安く作り、さらにはそれ以上の質・機能を加えていく。オリジナルのブランドバリューを超えるには質しかないのだ。 欧米、特にアメリカなどによっての商標登録による、日本製品に対しての非難に対して、多くの日本人はいくらかの違和感を持っていたのではないか。真似られたという非難は分かるが、次にもっといいものを作ればよいのだ。そうやって競って売れるものを作っていくのだという考えがある。それにたいして盗作だとか、あるいはオリジナルはこちらだとか、創造性のない「本家主張」は軽蔑の感をどこかに感じてしまう。 日本から離れて再認識する事のひとつは日本はつくづく「ものづくりの国」だということだ。そして作り続けるのである。誰もが「楽に金を儲けたい」というのを聞いた。しかし多くの者達が生活のために金を稼ぐ事を考えなくて良ければ、遊んで暮らすが、日本人は金にもならない創作活動を学び、存分に携わってみたいと思っているのである。 「わが国こそが起源」「われらのものがオリジナル」という人々に対しては、「それほど偉大な歴史があるなら、そのノウハウで立派なものを作ればいい」たいていの日本人はそう反応するであろう。 日本人の心情として軽蔑するのは、学ぶことなの無い人間である。人を非難することのみに精力を使い、一通りのあとには同じことの繰り返し、何もしなくて構わないと思い込んでいるような。 しかし、世界ではそう考えるのは少数派なのですよ。残念な事に。 (→トップへ) |
チベットの9年 (1987年,1994年,1996年) チベット1987年4月〜5月
その頃、ネパールの国境からチベットのラサの間は週に数本のバスがあったがのみで、そのバスは仕事で戻る中国人で満席、とても外国人旅行者たちは乗れそうもなかった。ほとんど毎日荷物を運んできて、ラサに戻るトラックがあるだろう、という情報であった。さいわい2台のトラックがあり、先に行っていた西洋人達が乗って、もう一台にインドから来た巡礼団とデンマーク人と自分が乗った。初日は雪、4月下旬の高原地に軽装しかなかった自分はチベット人の巡礼たちに毛布を借り、頭からかぶった。吹雪に近い中、幌はかかっているものの寒い。途中に寄った売店で50度ほどの強い酒を手に入れた。4000メートル以上の高度で一気に頭まできた感じだったが少しでも寒さはしのげた。 翌日は雪がやんだあとの真っ青な空と、地面からは雪の照り返しで、鼻、額、頬は日焼けで黒くなった。集落が少なく、店も開いてなかったり、食事と水の不足に参った。3日目の午後大きな町、シカツェにやっとつき、それからは飯も水も順調だった。翌日昼過ぎにラサにさしかかり、手前の河でみんな顔を洗う、埃と日にさらされ、額と鼻と頬が黒いかさぶたのようになっている。皆、大差は無く、顔を見合わせて笑う。 ラサは「夢の都」だった。ジョカン(大昭寺)と八角街の巡礼回廊。チベット人の多い市場、回族地域、長髪に赤い房飾りをつけて頭に巻きつけたカンバ族。彼らは両替屋が多く、チャンピオンベルトのような幅広で、ポケットがいっぱい付いたマネーベルトをしていた。当時、中国人の数はまだそれほどには多くも無く、どこものんびりとした感じがあった。路上に天幕を張って、椅子とテーブルをおいたティーショップ。路上でシシカバブーを焼くウィグル人。 そしてポタラ宮殿はラサの街の神棚のように威厳を持って聳えていた。
チベット人には概ね、日本人は好かれているようであった。よく日本人か?香港人か?と聞かれ、「日本人」と答えるとたちまち表情が和んでいくのを見たし、顔見知りのチベット人が歩いている香港人を指差して吐き捨てるように「シャンガンレン(香港人)!」と言う事もあった。中国人の中で、少数民族であり、資本主義で豊かになっている香港人へのやっかみだろうなあ、と思っていた。 泊まっている宿にも香港人のグループが幾つか逗留していて、数日経つと何か行動が少し異様であるのに気づいた。 彼らは宿を信用していないのか、あるいは香港がそういうところなのか、ちょっとそこに行くにもバックパックを放さない。背負っていく。つまりは夜の11時過ぎても、廊下をバックパックを背負った香港人が行き来するのだ。また、後日中国の宿で、香港人のグループが別の部屋に入りきれず、こちらの部屋にも泊まりに来た。彼らは仲間の部屋に荷物は全部置いて寝にだけ来る。部屋にはもう一人の日本人がいたが、昼間見ると2人だけ、荷物は勿論無く、夜になるとベッドが全部塞がるさまを「ざしきわらし」と呼んだ。 ある朝、暗いうちから騒がしく人が動いている。外を見ると多数の香港人が荷物を持って出て行くようである。「お、香港人の大移動か」広大な中国でも交通機関は総て北京時間で運行される。その時期、ラサで夜明けは8時ごろ(夜、西の空は10時過ぎまで明るい)。出発は朝暗いうちの事になる。 その日の午後のこと「あれ、いるじゃん」出て行ったと思っていた香港人の面々がホテルの庭にいるのを見た。そうか、例によって荷物を抱えて、ツァーにでも行ってきたのだろう。 後に食堂で居合わせたものによると、この朝に鳥葬があったそうなのだ。その日本人によると、鳥葬を見に行ったのはほとんどが香港人。日本人数人と白人が数人。「いやあ、中国でどこへ行っても香港人が嫌われるのはジェラシーからでしょ。でも、チベット人が嫌うのは分かるなあ」彼によると、鳥葬は明け方のまだ暗いうちに行われる。それを専門にするものたちによって死体は解体され、骨まで砕いて鳥に食わせる。その解体が始まるや、香港人たちが間近に取り囲み(あまり近づくと追い払われる)しつこくカメラのストロボを浴びせまくるというのだ。その態度は猟奇的で死者への畏れや敬意はかけらも無い。死者を解体するものたちは見慣れないと残忍かもしれないが、おごそかな作法にのっとって行っている。 「それにしても中国人はどうして死体にああ熱心なのでしょうかね、ラサにいる香港人旅行者の大半が鳥葬を見に行ったようです。北京じゃ毛沢東の死体もさらしものだし」防腐剤を施しても、遺体を見せ続けることにどれほどに教育的な効果があるというのだろう? その後にチベットでの暴動のニュースを聞いて、あの鳥葬のことも感情的な理由の一つであろうと確信している。 チベット1996年 1994年6月〜7月にもラサを訪れた。この時はラサを中心に幾つかの地方の町を回った。ラサには洒落た店が増えて、生ビールのスタンドなどもできていた。ラサの町に中国人の店はかなり増えたものの、地方の町は相変わらず、貧しく、人懐っこく、笑顔が多かった。文革で破壊されていた寺を修復工事中のところも多かった。 1996年6月には大きな変化が見えた。中国と国境を接する、カザフスタンなどとの緊張が溶けて、その軍隊をラサにもまわして来たようだ。チベットへの入り口であるゴルムドからラサへの間に3ヶ所の軍用燃料ステーションを見た。巨大な石油スタンドのような基地は以前に見なかったものである。そしてラサのポタラ宮殿の前には広大な運動場(演習場?)をもつ人民解放軍の駐屯地となっていた。ポタラ宮殿と前の国道の間にあったごみごみした感じの住居は整理され、中国のどこにでもあるようなさっぱりとした町筋になった。 中国人の店舗はずっと増えている。地方への出稼ぎは貧しく働き者が多い四川人が多く、四川料理店が圧倒的だったが他の地方の飯屋も増えてきている。辺境ではあるが「中国の町」になってきている。ミネラル・ウォーターもどこにでもあり、不便さは感じない。 交通網も整ってきて、辺鄙なところへ行くのでなければ、トラックに乗ることも無いのかもしれない。 しかし、自分にはかつての、初めてラサを訪れた時の輝きを見ることはないだろう。陳舜臣は「中国とは(人種とかではなく)中国文化である」と言う。その優越感と慣れで他の文化を、中国風に感化されるものだと見ることが問題なのだ。これは「文化の帝国」と言えよう。 私が初めて訪れた時のラサはまだ、チベット人の街であった。 今は中国人の町である。 (→トップへ) |
| 『中国五千年』 中国語には助詞がないというのを聞いたので、何年か前まで中国行きがもっぱらだったビジネスマンに聞いてみた。 −すると中国語ってコンピューターのコマンドみたいなものって訳ですか? 「地方語はもっと表現方法とかあるけど、北京語はそういえるかもしれない。よく『白髪三千丈』と中国の言うことが揶揄されますが、細かな表現が発達しなかったのでしょうね」 なるほど、それで中国人の表現は大きいほうにばかりなっていくのですね。 「うーん、詩とか表現が大きいほうへと伸びていくので、好みがそうなっていったのかもしれません」 中国人って『雄大』とか『壮大』などという言葉好きですもんね。それで、詩人は多くても、小説は少なかったのですね。 「朝鮮語には受身の表現が無いようです」 そういえば、西洋の国々に比べて歴史は長いのに歴史的な文学というのは見当たりません。 「まあ中国は易姓革命の国ですから。そういう考えが中国文化圏といえるのでは」 というのは? 「つまり、指導者は天命で指導者となった。しかし天の運行、気の変化によって堕落してしまい、新しい天命を受けたものが指導者として立つ。 そして世が変われば、前の世は否定されたわけですから前の世に作られたものは制度ばかりではなく、あらゆるものが否定され、破壊の対象になった。『文化大革命』を思い出してください。あらゆる文物にまで及びました。中国の歴史では、政権が変わるたびに虐殺と破壊が行われてきました。前の指導者が正しいならば、彼は老いて死ぬまで指導者であったはずなのです」 運気の変化?あ、それで、自分に原因がある、とか責任とかが希薄なのですか? 「中国は長い歴史がありながらも、王朝が変わるたびにそれまでの蓄積は破壊され歴史は連続していない、最後の変化は文化大革命ってところでしょうか。最も古いが歴史の無い、最も若い国かもしれません」 最も若い国ですか。子供の時には確か『中国2千年』と言っていた記憶があるのですが、NHKで『シルク・ロード』が始まる頃は3千年になり、今はいつの間にか『中国5千年』ですが、、、。 「『中国5千年』というのは日本人が言い出したんですよ」 (→トップへ) |
| 殺しの手口 初めて中国を訪れた時の事です。何もかもが新鮮で珍しく何を見ても楽しかった。街を歩いていると省とか市の政府の建物があります。そこには犯罪とか判決とか刑の執行とかが、中には写真も付いて展示されています。犯罪も世相を知るには役に立つ。テレビのニュースなどでも判決の下りるところは放送されています。犯罪者の顔はまる晒しです。日本では護送にジャケットをかけたり、モザイクをかけたりします。犯罪を犯すなんてのは自らの人権を放り捨てなくては出来るものではないと思います。「犯罪者にも人権がある」という人は多いですが、人権以前に犯罪を犯すということへの責任が、「人権」で許されるとは思えませんが、どうでしょうか。 さて国民皆が死体愛好者であるかのように、死体写真は多く展示されています。「えげつなー」写真を見ると、日本ではあまりないと思われるのが、「何ヶ所も刺す」。わき腹を5ヶ所くらいメッタ刺しというパターンが多いようです。それから顔に切りつけられているというのもわりかとありました。日本では、「殿中松の廊下」のように顔に切りつけるというのはよほどに個人的な恨みがある場合、と判断されるのですが。 その何年か後の事、タイ滞在中、外国人も多く住む地域で殺人があって、殺された若い女の交友関係から、外国人も容疑者に上がっていたようです。その死体も何ヶ所かのメッタ刺しということでした。聞いてみるとタイ人の殺人もこのやり方が多いようです。 もっとも、タイで葬儀場に行くと(葬儀場とレスキュー隊などは多くが民間ボランティアで支えられています)、カラーの死体写真がたくさん展示されてあり、「見事に一太刀で」というのもあって、バラエティに富んでいます。 日本人は屠殺に慣れず、魚以外は鶏をしめる事も経験のあることの少なく、血を流したくない(外国に比べて日本は絞殺が多い)。 それ以降、事件の報道や「○○事件簿」」など見るときにはその手口も気になるようになりました。殺人にも理由があり、方法があるのです。そして文化もあります。戦時中の写真で「日本兵による殺人」なるものに日本人はどうあっても、こういうやり方はできない、と断言できるものもあります(日本軍は日本人でない者たちも含んでいましたし、日本軍でないとは断言はできません)。 世田谷の一家殺人事件は聞いたとたんに、「日本人ではないな」と思いました。警察はその後、韓国に住む韓国人を参考人として追っていますが行方不明と聞きました。 昨年、神奈川の信用金庫を襲った強盗が外国訛であったと、現場に居合わせた人の証言がありましたが、喋った言葉は日本語にかなり慣れていても外国人はあまり使わない言葉でした。とっさの時に出る言葉とは思えません。案の定、数日後に日本人が逮捕されています。外国人犯罪が増えるのに併せて、この手の偽装も増えるかもしれません。 刑事はその手口も重要な証拠とするようです。注意してみる価値はあると思いますが、どうでしょうか? (→トップへ) |
| 普通の生活(パキスタン) ペシャワール(1994年3月) パキスタンの西北部にあるペシャワールは昔も現在も「アフガンに至る道」である。その昔、アレキサンダー大王はペルシャから中央アジアをを経、アフガニスタンを平定し、カイバル峠を越えてインドへと押し寄せた。またここはかつてのガンダーラとして栄えたところで、仏蹟も多い。住民の多数はアフガニスタンで多数派民族のパシュトゥン人である。パシュトゥン人には来客の歓待だとか、報復とかの独自の掟があって、政府もここを特別区としてかなりの部分を認めているという。 アフガン戦争の盛んであった頃は、カイバルホテルはアフガンを目指すフリーのジャーナリスト・写真家、そしてガンダーラ、アフガン文化の望見に来た旅行者、最も良質といわれたアフガン産のハッシッシを求めるヒッピーなどの溜まり場だったという。 カイバルホテルは今は無い。隣にカニズホテルというのが出来て、そこか周辺に数件あるホテルに泊まる。 人々は温和に見える。たまに笑顔で「どこから来た」と話しかけてきたりもする。パキスタンは出稼ぎ者が多いので、外国人を見ると話したがるものもいるようだ。ここでは東部や南部のように遠慮も何も無く見つめることも少ない。ある日、ホテルに南部からのパキスタン人旅行者が泊まっていたが、宿のスタッフは「やつらはインド人みたいで嫌いだ」と言っていた。 穏やかな人々たちであるが、表に出ると突撃銃のAK47を持ったアフガン人が歩いているのを見る。銃器ショップもある。パキスタンは銃器の所持が許されているのだ。自分はここに来る前に、カラチに数日いて、強盗やゲリラが頻繁に現れるとかで、街の方々にAK47を抱えた警備員がいるのを見ているが、制服を着ていない=業務でなくAK47を抱えている人を見るのは初めてで、少し驚きである。 しかし、他の国でこれほど銃器が人々の手にあれば、犯罪はもっと多いのではなかろうかとも思う。 ここに来ると、早速近づいてくるのが、ツァーと売人である。ツァーは主に密輸市場、アフガン人の難民村、国境のアフガン側を望めるカイバル峠、500軒のみんなが武器作りをしているダッラほどの町などである。アフガニスタンの首都カブールへも行けるというがこちらはノービザ、ノーパスポートで行けるというから密入国ツァーになる。後日知ったが、パキスタンではアフガニスタンのビザは取れないものの、観光も何も禁止していたわけではなく、取れるところもあったのだという。また、この頃は入れたダッラは後年に外国人は入れなくなった。ツァーは一番遠いダッラでも半日、他は数時間で済む。 売人のほうは、ハッシッシ、銃器などである。あちこちに検問があるし、いずれにしても手を出さないほうがよい。 密輸市場はアフガンからの免税品を主としたもの。かなり安い。カルダンの衣類を揃えた店もある。日本製品は偽者が多かった。ツァイスのレンズの軍用双眼鏡が目に止まったが、主人が不在で値段も分からず。近所に銃器ショップがあり覗くと昔の中国製モーゼルやトカレフ、重機関砲などがあった。店の親父はペンガンという、ボールペン仕掛けの(単発)銃を薦める。勿論、ボールペンとしても使えて値段はブランド物のボールペンくらい。なぜかどれも「MADE IN JAPAN」と刻印が入っている。 喫茶店のような構えの、チャラス(ハッシッシ)ハウスなるものもあって、中を見ると、ガラスケースの中に黒っぽいレンガのような塊りのハッシッシがあって、注文するとタバコに巻いてくれるようだ。他にはお茶も何も無い。誰もがただ、タバコを吸っている。タバコを吸わず、線香の煙も苦手な自分には異郷である。 ダッラはバスに乗って数時間。途中にも幾つかアフガン人の難民村があった。ダッラの町はことごとくが銃器の町である。職人の団地のように間口の狭い工場と店舗が混在する。子供が台車の前後を支えて運んでいるのは、炉から出したばかりの銃身。次の間口では親父がハンドドリルを使って銃身を止めるねじ穴を穿っている。さらに次の間口では子供が薬きょうに火薬,弾頭を詰め、型で抑えて上を軽く叩いて、弾丸の制作。時々爆発する事故もあるという。時折、拳銃の連射音がする。街の裏側辺りで、機関銃の音。試射しているらしい。試射の流れ弾や跳弾による事故も多いらしい。店にはウージーやコルトや種類は豊富だった。ハイテク銃といわれるドイツのH&Kなど以外はかなり揃っているように見えた。総てがここで作られたコピーである。アフガニスタンから買い付けに来ていたグループもいて(聞くとやはり、ゲリラだとか)重機関銃を筵のようなものにくるんでいた。 帰りのバスを待っている時に、どこからかハッシッシの匂いが流れてきてこの街の異様さに気がついた。
ペシャワールの街のバスターミナルで乗り換え、難民村に向かう。建築資材もどんどんと運び込まれていて、難民は増える一方だという。見た限りは「村」である。小さな店舗があり、生活に必要なものがまかなわれる。テント張りの喫茶店があったので入る。インド物だろうかビデオが流され、木製の長いテーブルと椅子がある。親父が来て、この辺りで普通に出されるカフワ茶という、グリーンティーにカルダモン、砂糖の入った茶を注いで、小皿に砂糖にくるまれたアーモンドの菓子を一つまみ置いていく。若者のグループがこちらを見て控えめな笑顔を見せる。ガイド氏が聞くと今朝、アフガンから来て、数日休んでまた戦闘に行くそうだ。 ガイド氏はけっこう知れているらしく、かなり顔が利くようで、後日NHK教育テレビの記録番組や、報道番組でもその姿を見かけた。 昨年のアフガン報道では以前に泊まったホテルやレストラン飲み物屋などがニュースで写され、あの時を思い出した。戦争の現場には、慣れているジャーナリストや写真家が行くのは昔から変わっていないがベトナム戦争のときなど、多くの新聞記者などが戦地に赴いた。今は、あまり出向かないようで、あるテレビ局では若いアナウンサーが、難民村ツァーを大変なところに危険を冒してやってきております、という調子で流していた。水が不便(共同の水場から汲んで来なくてはいけない)、肉屋に冷蔵庫が無い、など「悲惨な生活」を強調するように繰り返していたが、空気が乾燥しているし、肉はさっさと消費されるので問題は無い。 あのねえ、これが普通の生活なの。 私も何も知らない頃に、「バングラデシュの洪水、コレラも拡がる」などという報道で、路上のあちこちに横になっている人を見て、コレラでバタバタ人が倒れている、と思ったものだが、後に実際に行ってみると、あそこで生活している人たちであった。 何だ、普通に生活している人なんだ、と納得した。 (→トップへ) |
| マダガスカルのサムライ 昔も今も海外で描かれる「日本人像」を見るのは恥ずかしくも面白い。古くは映画「ティファニーで朝食を」に出ていたヤカモトさん(どうか日本人であなたの知り合いに「ヤカモト」という人がいれば是非一報ください)。007シリーズでも剣道着で竹刀をふりまわし、挙句の果てに自滅するという役をアメリカでは著名な武術家のヤマシタ・タダシ氏がやっていました。中国ではいつもへらへらして、臆病で、残酷な日本兵が出てきます。こんな日本兵はいない、と思っていましたが、最近ある方が資料を送ってくださって、そういう集団が戦時に日本兵に組み込まれていて、上層部から「取り扱い要注意」の指示が出ていたそうです。それを分かりやすくすると中国映画、及びテレビ番組のかくの如し。 世の中には物事を理解し、肝心のウラを取らなくても、できなくてもツッコミを入れるのがジャーナリストと思い込んでいるのは日本のマスコミに限らずで、受けばかりを狙うので人心を惑わす。 インド人やイスラム圏などの人々は「私は○○だ」といって、人の名前を聞きたがるのが多いが、あれはなんなのだろう。どうも、個人情報を聞かれているみたいで「マイフレンド。俺はヤカモトだよ」などと答えてしまう。まあ、実際には彼らにしたって「俺には日本人のヤカモトという友達がいる」と自慢するくらいだろうけど。他に「ホンダ・イチロー」なんても受けがよい。だいたい聞いてくるやつが先に自分の名前を言うのだが、インド人ならクリシュナ、ゴパール、ビシュヌ、など。イスラム圏ならムハマッド、アリ、サイード、マームードそれぞれ5つ位で9割をしめる。中近東圏に行くと周り中が長衣にターバン、ひげで、見分けなどつくものか。「百人一面相」である。犯罪の被害に遭ったって首実検もむずかしい。 海外の日本人像に「まじめ一筋。冗談も言わぬ」というパターンもあるようです。ある意味、映画「カラテ・キッド」に出てくる沖縄の老人なんかもそういうパターンかもしれない。実際は何人か会った日系人はほぼ、現地人でもあり、どこかの部分に日本人でした。世界中の国々に行って、現地駐在者の集まるところはあっても「ジャパニーズ・タウン」がほとんど無いのはその国に溶け込む能力があるからでしょう。そして会ってみると、見事に現地化された2世・3世でも、こういうところに普通、神経使わないよなあ、というところに気遣いがあって「和の心」を意識させられます。「和の心」に祝福と栄光あれ。 マダガスカルで夕方のニュースの時間、スポーツニュースのタイトルに眉間をしかめて技をかける、合気道の先生が流れていました。ニュースの部分でも時々現れるのですが、いつも同じ表情で技をかけ、教えていました。町を歩くと大きな合気道の道場がありました。海外でレベルの最も高いフランスから入ってきたようで(独立してから約40年になりますが、今もフランスの半植民地状態です)、来ている師範のレベルも高いようでした。 はるかに遠いかの地でいかめしい表情で合気道を教える事に賭けている師範先生は、昔ながらに「男は歯を見せるな=だらしなく笑うな」という教えを守る、ハラキリの覚悟もある、サムライかも知れません。 (→トップへ) |
| 旅への決意 詩人の金子光晴をごぞんじでしょうか?大正の時期に夫婦で日本を出て、数年をかけて船で東南アジアを巡り、パリに行きました。絵を描いたりして時々稼いだりしながらの旅でした。ヨーロッパ行きの船に夫人を乗せることは出来たものの、費用が足らず、自分はまだ、しばらく出ることが出来なかったという事もありました。「マレー蘭印紀行」「西ひがし」「どくろ杯」など、中公文庫や角川から出ている本が今も手に入るはずです。私の東南アジアへの憧れは金子光晴の旅行記から始まっています。 サラリーマンをやめ、幾つかの国を訪れてから、マレーに至った、あれから20年余りが過ぎました。今も時々マレーシアに行き、朝は起きるとまず、コーヒーを飲みに出かけます。金子光晴の話に出ているように甘いコーヒーとざら目をかけたトースト。時は流れ、マレーシアもダイエットとかの流れのせいか、昔ほどではありません。昔はコーヒーカップの底には砂糖の層とコンデンスミルクの層で厚さ1センチを越えていたものでした。マレー人の高床式の家屋も合板を使った建築資材が多くなり、車、テレビ、モーターバイク、生活は変わったようです。日本への出稼ぎ経験者にも会う事が多い。 たまに、マレー人の喫茶店に入ります。最初は固い表情で応じてきます。中国人と見間違えられやすいからですが、中国人がマレー人のカフェに入ることはほとんどありません。しかしマレー語でなくて英語を話すので、誰かが話しかけてきて、日本人と分かるとみんなの表情が和みます。次々と質問が来る事もあれば、優しい表情でほっといてくれる事もあります。コーヒーを飲み、テーブルの上にある蝿よけのネットのかかった皿からパンか菓子を取る(勘定の時に皿から減った分だけ払う)。甘味が濃いのは昔ながらの味なのか、サービスなのか。初めて来た頃の甘い甘いコーヒー。 亡くなる時まで女が好きで、女の話が出来た金子光晴をうらやましく思う。現代の旅はあわただしく、計算が必要で、疲れてしまうようです。それでも夢の名残を追うように、甘い甘いコーヒーの味の中に変わらず通じているものを探してみる。 (→トップへ) |
| サンダカンへの旅 東マレーシア=ボルネオ島はインドネシアと国境を接しています。他から行くと遠いようですが、台湾からは直行便もあります。フィリピンのミンダナオ方面からのフェリーも通っています。こちらは海賊の話も多いですが。 最も大きな町であるコタ・キナバルにはフィリピン人の集落もあり、毎日のように不法入国の取締りが盛んでした。当時もまた、インドネシアの森林火災が報じられていた頃で、「ここも、もう1年くらいまともな雨が降っていない」という話で、町の立ち木には葉っぱの色が焼けているものも見受けられました。近くには東南アジア最高峰のキナバル山〈標高4095メートル)がそびえ、ジャングルの広がる地域もあり、周辺には十分に雨があるようでした。体重が増えてかなりきついキナバル山登頂のあとには近所の温泉で療養。そしてジャングルキャンプで数日を過ごす。 数日とはいえ、熱帯雨林の中はすごい湿気で、持っていたガイドブックまでずっしりと重くなっていました。テングザルやコモドトカゲの他、マダガスカルとセイシェル、ボルネオにしか生息していないという、鳥や植物も見ることが出来ました。そしてジャングルの中は鳥や獣に虫の声で、夜があまりにもうるさい事を知りました。 泥色の水のシャワーをかぶった数日。他の欧米人達はアウトドア慣れしていると思ったのですが、みんなこの泥水色のシャワーは駄目だったようです。 サンダカンの町に戻ればまず、洗濯を済まし、泥まみれのキャンプ・ブーツを靴屋に磨いてもらう〈靴磨き屋はフィリピン人でした)。こちらで会う中国系は台湾系?何か表情が随分柔らかいのです。ミネラルウォーターを買おうとして店先に顔を突っ込んでもにっこり微笑みかけてきました。 マレー人ですが、海辺のシーフードとビールをそろえた店も働いているのは皆女の子達で、イスラムの国では珍しい。ここはキリスト教徒も多いらしいので雰囲気的に堅苦しくないのでしょうか。バス・ターミナルでバスを探している時も中学生くらいの女の子たちが「どこへ行きたいの?」と言ってきて、バスを見つけてくれました。 地方に行くと、イスラムの国でもアジアに多い、カカアの原理が以前強い事があります。カカア殿下が今も変わっていないのですね。もっとも、イスラムは必ずしも男尊女卑ではなくて男女の役柄の違いという解釈もあります。伝わっている文化でその解釈と実際の違いがでるようです。 パキスタンのカシミールで通りかかったところで洗濯中のオバハン連中に捉まってしまい(私はヒンズー語とパキスタンのウルドゥー語の簡単な会話なら出来ます)、次々と疲れるまで質問をされて、ほどほどに逃げ出した事があります。 サンダカンといえば、「サンダカン八番娼館・望郷」。線香を買って日本人墓地への墓参りに行ってみる。広大な中国人墓地の奥の方、インド人墓地のまだ奥にあります。本来は河か海に遺灰を流すヒンズー教徒も、流す事が禁じられているのか、ここでは墓地があります。 出身者の郷土からの義援金とかでしょうか、墓はきれいに整えられていました。南洋汽船の船長だとか材木商だとか文字もしっかりと彫られていて、新しい墓石のものもあります。山崎朋子の小説には「日本人の墓は日本に背を向けて建っている」とありましたが、山の斜面がそういう風に向いているのです。斜面に向かって建てる訳にもいかないでしょうから。 広い海に向かっていて、自分もこんな明るく開けたところに墓が欲しいと思ってしまいました。
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| 『友好』 佐々淳行氏の本(だったと思う)によりますと、田中角栄と周恩来の国交回復調印後の晩餐会で出た料理はなまこであり、これは「降下の将」に対するものだという。対等であれば「ツバメの巣」であるとか。相も変わらずシステムは儒教の国柄である。依然中国は世界の中つ国であり、国交を結ぶ国は皇帝の臣下として封ざれるという訳で、それ以外は蛮族で国というものはない。「毛沢東思想」が社会主義のシステムを利用した孔孟思想でありマルクス主義を理解したものではない。新しい箱に入れ替えられた古代中国の、進展を見せない思想である。「革命」は思想の変革ではなく、ただ箱の入れ替えに過ぎない。我々はいかに誤解していた事か。漢字の発祥の国自体が恐ろしく意味が浅く狭いのだ。中国と日本では「友好」の意味が180度違う事もある。 そして「友好条約」を結ぶことによって夥しい指図と干渉が続く。友好を結ぶということは降下したとしか理解しない。「歴史教科書」「靖国神社」「戦犯」「尖閣列島」などなど。日本が中国に対して何かを言うと「わが国に対する重大な内政干渉」となる。中国が日本に対しての恫喝といったほうが的確な態度は内政干渉にならないのか?中国政府はなぜこのような態度を取り続けるのか?という疑問を抱いた人は多いはずだ。しかし中国から見れば決して干渉でもなんでもないのである。なぜならかの国とは「友好条約を結んだ国=臣下であるから」。臣下は何も意見はできない。意見されたら従う。これって一国二制度と同じではないか。 それに応じて靖国神社に変わる慰霊の設備を作るといっている人たち、鳥居に龍が巻きついた門でも作るつもりか? 漢字を使う国で「恥」という字を知っているのは日本と台湾だけだそうです。 昨年の9・17会談の小泉首相が誘われた昼食会を拒否し、持って行った幕の内弁当で済ませたというのは実に的確な判断といえましょう。なまこを食わせられたら、臣下にされてしまう。そうでなくても例えば以前に新日本プロレスが平壌興行に行ったときに金日成の銅像に献花させられ「偉大なる主体思想にたいして」への聖地巡礼として扱ったり、援助米を「金正日将軍閣下への献上品」としてしか発表していない(これは明白な援助協定の違反であるはずなのにどこも抗議していないのではないか)国柄である。相手があまりにも惨めで、たまらず食べ物を分けてやったら「奴ら、クソどもが俺様が偉いので貢物をよこして命乞いしやがった」といつも口汚く言い散らしているのだ。 「大韓民国」となってもっとも賢明であった朴大統領でさえ、訪問者を大きく不安定なソファに座らせ不安定な姿勢でマスコミに写真を撮らせて、自分は大きく見せられるソファに一人座り、相手を小物に見せようと努力した。 朝鮮戦争の休戦会談の時に北朝鮮は米軍代表に「兵士が誤射しないように白い旗を立ててくるように」と要求した。そして同盟国には「降伏してきた国連軍」である。 「礼」を尊ぶ日本人は儒教は礼の法として認識しているものもいる。しかし、儒教の「礼」は身分に応じた対応の作法であって、日本人の他者に対する礼とは無縁のもの、むしろ無礼の極みである。儒教にとって「他者」とは人間扱いさえされない。 日々、ニュースを見聞きしながら、人間の口からかくも糞尿よりも汚い言葉が発せられる事に驚く。 (→トップへ) |
| フンザ、桃源郷 パキスタンの北部にフンザという所がある。インダス河の支流の渓谷に沿ってある。その昔、インドへ仏教を学びに行った玄奨三蔵や、法顕の話にも出てくるらしい。目の前には5千メートル級の山々が連なり、夏でも上部は雪に覆われ、1日に何度も大砲を撃つような雪崩の音が渓谷沿いに響いてくる。ここも「桃源郷」の一つとして呼ばれていた。渓谷を走るカラコルム・ハイウェイは頭上には岩山、足元には雪解け水の急流が流れる。夏場こそいささかの緑が見られるものの、瓦礫の土壌の大地である。そんな中にフンザは緑の萌える里である。春の訪れとともに、杏の花が咲き誇る。くすんだような白っぽい杏の花が開き、村々はゆっくりと緑を増やしていく。 住民はイスラム教徒。しかし、ペルシャ系であり、イスマイリ派である。その昔、ペルシャから迫害を逃れてこの地にやってきた。当時この地は仏教徒の住民が占めていて、彼らをかくまったという。今もこの周辺には仏蹟が数多くある。そういう経緯のせいで、この宗派は異教徒に寛大である。モスクはイスマイリ派以外はモスリムも立ち入り禁止である。朗々と響く声で礼拝を呼びかけるアザ−ンもない。 さらには、研究者の話によると、改宗を強制された時には改宗したふりをしても良い、というのもあるという。迫害を受けてきた宗教ならではといえる。 歴史でイスマイリ派の名が知られるのは、「山の長老」で知られ、ハッシッシから来た、アサシンの語源である「アサシン派=暗殺教団」の話がある。しかし、イスマイリ派の歴史を研究している方によると、直接の関係は認められない、という。 インドの地図で見ると、ここはインド領になっている。パキスタンと中国は国境をインドに遮られており、接していない。しかし実際はパキスタンの行政が行われている。中印巴間の戦争の結果である。5月から10月末までは中国との間に定期バスも走る。 フンザの女性はチャドルをつけない。異なる習慣を持ち、教育にも熱心なようで、高学歴も多い。パキスタンのあちこちの場所のオフィスで、フンザの出身という人に会った。女性も多く活躍している。 トラックを改造した乗り合いタクシーに乗った際、カメラの入ったバッグを抱えていると、運転手が(座席を詰めるので)、バッグは荷台においてくれ、と言われた。荷台では荷物が跳ねるので、それは駄目だ、と言うと「俺たちはフンザの人間だ、物を盗ったりしない」と怒る。いやあ、そういう意味ではない、としばらく説明して、「分かった」と運転手はカメラの入ったバッグを膝に抱えてくれて、ようやくスタートした。
村々にびっしりと植えられた杏からはワインも作られていて、その昔はトレッキングで村を訪れてると容易に手に入ったものだった。パキスタンは禁酒国である。正式にパキスタンの行政区になって、はばかれるのか、以前のようにおおっぴらではなくなった。こういう風にその昔はフンザというひとつの国であったのが「パキスタン」としての習慣とつき合い、変わっていくのだろう (→トップへ) |
| 階層社会 80年代。次々と出版される「地球の歩き方」はそれまでの旅の形を変えた。それ以前は日本語のガイドブックは乏しく、あってもパック旅行用のものばかりで、解説されているのは首都と遺跡、個人で旅行するのに使えるようなものはあまり無かった。 それでも情報は必要で、その土地の旅行記だとか、人類学の本なども参考にされた。英語でも「Lonely Planet」の他は似たようなものであったと思う。当時、多くの旅行者は大学ノートを持っていて自分の日記を兼ねて、詳しい情報ノートを作っていた。そして、時にそれを見せ合い、情報を増やしていた。個人でマニュアル=ガイドブックを作っていたわけだ。 情報よりも個人印象の「こう感じなさい」風の記事が多いなどという「地球の歩き方」への否定的な意見もあるものの、情報が増えたのは確かである。 そして90年代、旅のスタイルを大きく変えたのは「猿岩石」である。テレビの旅行まがい企画の人気を経て、旅人のスタイルは大きく変わった。気楽に外国に出るものが増えたのであるが、不可解なのはその多くが一人でなく、二人あるいは数人である。人は「猿真似岩石」と呼んでいた。個人旅行者を見ることが稀になってきたのだ。それ以前から旅をしているものにとっては、異様なものである。 仲間によって、その視界、時間、つまり世界の半分以上を塞ぎせっかくの体験を学ぶ事も少なく、つまりは「見物」に終わらせている。そういえば仲間が居て、時間がつぶせるからなのか、ガイドブック以外の本を持ってないのも変化であろう。 また、バンコクの飲み屋などに現れていきなり、「お金が無いので働かしてください」というのもしばしばだという話。これもテレビと現実の差が分かっていない状態。 それに比べて女性は今も単独旅行を多く見かける。あるひとり旅の女性の話。「何か常に仲間と一緒だからか、周りが見えてない。なのにやたらと自信持っていて、自分達はドミに泊まっていても、人のことは『そんなところ泊まって危ないですよぉ』などと言う。でも、結構盗まれたり、騙されたりしてる話も聞くんですがね」。 日本でのサッカー選手の流行スタイルの真似もあったのだろうか、長髪ではなくともぼさぼさの頭、無精ひげ、よれたランニングシャツに膝までのパンツ、トレッキングシューズというのが多い。ワイルドさを演じるのも、街中でやっているのは空気が読めていないのか。フォーマルなどはいらないが、こざっぱりした服装の上下一揃いくらいは持って欲しい。 私たちはその一つ前の時代の旅人であったが、ビザを取りに行く時、あるいは何らかの役所などに行く時のために上下くらいは、きちんとしたものを取っておいたものだった。私たちよりも、その一つ前の時代では、バックパックの中に背広を入れていたという。 旅の先輩に聞いた言葉 「汚くしていていいことは何も無い。こざっぱりしていて悪いことは何も無い」。 先日訪れたある領事館のビザ係りには入り口にヘルメットなどの他、ランニングシャツ、短パンでの立ち入りを禁ずる、と表示されていた。気をつけましょう。 クアラルンプールの日が暮れて広がる屋台。適当な肴とビールを取って楽しんでいた。少し離れたテーブルに若い日本人の学生風の3人連れ。「あちらの物、注文したいけど、持ってきてくれるのかなあ」とぐずぐずしている。その隣のテーブルに一人いた女性が「大丈夫ですよ。持ってきますよ」と言うと、「あれえ、日本人ですかぁ?」「お姉さん、こちらに住んでる方ぁ?」と居酒屋で隣り合わせのノリ。女性は笑っただけで答えず。しばらくして立ち上がるところ、「あれぇ、帰っちゃうのぉ」「遊ぼうよぉ」と野朗ども声をかけるが、無視してさっさと帰る。無理も無い。彼らは全国民中産階級の価値観に育てられ、外に出ても階層社会では自分達がいかに「カッコ悪い」か、彼らに声をかけられるのが恥かしい事態であるかを知らない。 子供の時に「人を見た目で判断してはいけません」などという人がいたが、今もそうなのだろうか。日本を除いてほとんどの国は階層社会であり、見た目で判断される。なら、ふさわしくないと判断されないくらいの見てくれは必要であろうと思う。 バブルの頃に、洗練された格式とマナーを味わいに来ている人々の間に、日本からのTシャツとジーンズ、ウェストポーチの週末OLが押しかけ、構わずカメラのストロボをたきまくり、格付けを下げられたホテルも何軒かあった。 また、ヨーロッパの高級ブランド、ルイ・ヴィトンで仕事をしていた人によると、ヴィトンのバッグを持ってエコノミークラスに乗るのもふさわしい事ではないそうな。 バンコクに居て、このごろは勤め人、働いているが自営かフリー、アルバイトの人、仕事をしてない人などが、ほとんど即座に見分けられるようになってきた。階層社会に馴染むつもりは無いが、見えてくる物はある。 (→トップへ) |